プラスミライ

FUTURENAUTの昆虫食メディア

昆虫食の話

「食べる=命をいただく」を昆虫食を通して学ぶ

 

こんにちはコオロギ社長です。

イベントで出店しコオロギのお菓子を売っていると、お客さんから「うーん、虫はちょっと・・・」と言われることは多いです。
僕自身もその気持ちはわかります。

でも意外と、
食べ物に虫をたくさん使うなんて可哀想
なんて言われることも多いです。

これにはとても違和感を覚えます。ちょうどたまたまツイッターで似たような話を見かけたので今回はそんな話を書こうと思います。あまり話したことない話です。昆虫食の話は後半まで出てきませんが、ぜひ最後まで読んでみてください。

 

 

目次

生き物を食べることで生きている〜自分自身の体験から〜

 

おそらく、生きていく上で直接的・間接的含め殺さずに生きていくことは不可能でしょう。それは人間が生きていく上では必要なことだと思っています。だからこそ、「いただきます」と言い、できるだけ残さず食べようと心がけています。それを忘れず、心に留めておくために今回はこの記事を書くことを決めました。

 

まず少し僕の小学生の時の話をしようと思います。

当時、僕の家では鶏を飼っていました。その時、一度卵から鶏を孵すのをやってみたことがあります。夏休みの自由研究の題材として、最初はこたつを改造して孵卵を試みるも失敗し、結局地元の人から孵卵器を借り、何羽かの雛が孵すことができました。

ひよこ
ひよこはもふもふなのです

でも、鶏は卵を取るのが目的なので、オスは何羽も飼うことはできません。大きくなるまで、オスかメスかわからないのですが、成長するとオスは次第にトサカが大きくなり鳴き方も変わるので見分けがつくようになってきます。

そうなってくると次第にオス同士が喧嘩をするようになります。時には羽が抜け、血が滲む時もあるほどです。

その時期に、一家総出で鶏を〆るのです。半日から1日がかりの仕事です。まず、父が鶏を抑え、母が首の太い血管を切ります。しかし生命力はすごく、切られても数分は生きています。しばらく生きていますが、最後の力を振り絞った鳴き声を出し、思いっきり暴れると静かになります。

そのあとの羽をむしる作業は僕の仕事です。まずあらかじめ用意していた大量のお湯にしばらくつけます。そうすることにより羽根は抜けやすくなり手で掴んでむしると簡単に抜けます。不思議なことに羽が生えている時は生き物だったのが、羽をむしった瞬間お肉になったような気がしてくる感覚は当時小さいながらも不思議でした。

そのあとは、部位ごとに切り分けたり内臓を取り出したりします。中学生くらいになった時はある程度この作業もできるようになりました。

しかし、この生き物をお肉にする一連の作業はタフなのです。体力的に1羽くらいを捌くのはなんともありません。でも、精神的に疲れるのです。命をいただくという行為はストレスフルだったのだなとここで感じました。

そして、1羽の手羽先やレバーが少量しかないことを、恥ずかしながらこの時初めて知りました。母と一緒にスーパーに行って、パックに詰められたたくさんの手羽先やレバーを見ても、何羽分かなんて考えたことはありませんでした。でも、その時から、スーパーで「あ、こんなにたくさんの手羽先が入っているってことは相当たくさんの鶏からとっているんだ」という違った視点が僕の中に。

 

〆た鶏肉の画像が無かったのでフリー素材を探しました

 

飼っていた鶏はとてもおいしかったのを覚えています。平飼いで育てた鶏はスーパーで売っている鶏に比べ肉質が筋肉質で、香りもすごく良いんです。でも、今思うとおいしかった理由きっとそれだけではなかったんじゃないかと。

 

「食べる=命をいただく」ということを考える1つのきっかけがこれでした。その過程は体験して良かったなと思っています。

本当かどうかわかりませんが、今の子供達の中には「魚の切り身が泳いでいる」と思っている子も多いようです。

スーパーに行けば切り身や精肉が並び、そこからは生きている状況は想像もつきません。生きているイメージができないので、命をいただいている感覚がなくなってしまいます。本来の自分で〆る行為がなくなり、生活は便利になったもののどこか生き物ではない工業生産された物質を食べているような錯覚を覚えます。

この感覚が欠如してしまうと「虫を食べるなんて可哀想」という言葉が出てしまうんじゃないのかなと。それを可哀想で片付けてしまってはいけない気がします。「可哀想」という言葉ににいくらたくさんの意味が内在していたとしても。

そもそも僕らは、普段から命を頂いていて、牛も豚も鶏も虫もお米も野菜もそうです。その命の価値に大小もありませんし、そこに可哀想ではなく感謝しなければいけないんじゃないかと。

きっとそれが僕が感じた違和感の正体なんでしょう。

 

 

昆虫食を通して得た命を頂いている感覚

 

おまたせしました。ここからは昆虫食の話です。

僕が昆虫食を始めたのは2018年頃。大学3年生の頃でした。漠然と研究テーマを「昆虫食の心理分析」に選んだものの、僕自身が昆虫食を体験したことがありませんでした。

このままではいかん。しかし、巷の昆虫食は高い。
そうだ、自分で採って食べよう

今考えれば、割とやばい判断でした。でも、知らないながらも、内山先生の昆虫食入門の本を読み、野生の昆虫の食べ方について調べました。

食べる昆虫はその時期畑にいたコオロギ。幸い実家の畑は無農薬で除草剤も使っていなかったのでその点は安心でした。20歳にもなって、虫取り網と虫かごを持ち、コオロギを捕まえる。意外とコオロギって捕まんないものです。難しい。

なんだかんだで50匹くらい捕まえ、1日絶食させました。翌日わからないながらもお湯で絞め、そのあと串焼きと素揚げに。

 

 

昆虫食に免疫がなかったので、見た目がしんどかったです。

 

 

残さず食べましたし、味もエビっぽくてそんなに嫌いな味ではなかったけれど、どこかお腹が痛い感じがしました。普通に虫を食べ慣れてないから食物繊維にやられた可能性はあります。

でもこの感覚は鶏を〆たときと似た感じでした。命をダイレクトに感じるというか、自分の手で殺して食べる感覚とつながる部分がありました。僕は昆虫食を通して、頭の片隅に追いやられていた「命を頂いている感覚」を取り戻したような気がしました。

 

昆虫食は食育になる、と本や論文で読んだものの実感としてはありませんでしたが、この経験を通して確信に変わりました。しかも、鶏に比べて手軽に体験もできる、そう感じました。

昆虫食は採って食べることを通して食育としての機能は高い。これはいわゆる工業的な生産や流通に乗せることを考えない、アクティビティとしての昆虫食のあり方です。もちろん、単純にこの行為は「美味しい」、「季節を感じられる」ということもあるんでしょうけれど。

 

最後に何が言いたかったか

 

なんか書いているうちにわけわからなくなってきましたが、今回は僕が感じた「命を頂いている実感」について書いてみました。この感覚がないときっと食べ残しをしてしまったり、粗末にしてしまったりしてしまうんではないかと。

昆虫食品開発をしているとどうしても建前で、「環境負荷がー」「人口増加がー」と言ってしまい、自分ごとから離れていってしまう気がしていました。これを書くことによって改めて、この感覚を持ち食に自分ごととして携わりたいと改めて感じました。

最後に、たまたま定食屋で手に取った美味しんぼに心に残るセリフが書いてあったので引用します。

 

牛を殺してもいいが、鯨を殺してはいけないなんてことはあるもんか!!

両方有罪だ!!

生命あるものを殺さなければ生きていけない人間が、生まれつき背負った罪なんだよ!!

美味しんぼ13巻より

 

鯨は賢いから殺してはダメ、ということを言った人に主人公の山岡が言ったこのセリフ。僕は個人的にとても刺さりました。

 

FUTURENAUTの代表の櫻井です。 前までコオロギ君として記事をUPしていましたが、最近「コオロギ社長」と呼ばれることが多いので変更します。 これは昇格なのか?! 昆虫の見た目が苦手です。 でも苦手だからこそできる昆虫食の発信ができると思っています!